普通にできる奴の正体
普通の人というのは人々が思い描く、平均の能力を持った奴のことだろう。
例えば、車を持っているかと言われたら持っているのだろう。
でも普通の人なのでプログラミングとかはできない。
ただし、普通なら出来ることをめちゃめちゃやってのける。
挨拶やメールのやりとり、確認作業、家事や掃除や日々の運動とかとか。
多分年収は普通に450万とかいってそう。
大学は出てるが、大企業ではないそこそこの企業に入社してサラリーマンをやってる。
普通なので、多分結婚してるし、育児もする。
喧嘩とかもするけれど仲直りもする。
子育てとかもしっかり分担して、協力的にやる。
ゲームはするかもしれないが、多分スイッチ買っててプレイ時間も長くて40時間くらい。
テレビとか見ていて、芸能人とか知ってる。
スマホはiPhoneで、ソシャゲとかも一つくらいはやっているかもしれない。
facebookには登録してるけどTwitterはやらない。
YouTubeは見てるだろう。HIKAKINとか、ひろゆきとか見てる。
仕事のケアレスミスは少ない。
電話応対もできるので、結構信頼される。
営業とかもなんかできる。
パワポで資料作成もできるがデザインはしょぼい。
だが内容はまとまってる。
でも恐らく広告的な用語とかは理解できてないレベル。
洋服とかも買うし、外見もそれなりに清潔感がある。
あとカバンとかしっかりいいやつを買ってる。
恐らく普通の人間は多かれ少なかれ偏っているものだ。
全ての能力が平均的というのはものすごく偏っている。
テストで必ず平均点を取るやつなんか、サイボーグ的じゃないか。
普通にできることは、ものすごく一つのことに対してだけ言うべきで、普通を全体に適用してしまうと恐ろしい有能人間ができてしまうのだ。
関係ないが、婚活市場ではそれこそ普通の人を全体で適用する人が多いので、普通の人は理想が高いなんて言われてしまうのだ。
人は偏っているからこそ、普通なのだ。
そして、みんな違うのだ。頭がいい奴もいればバカな奴もいる。
それこそが普通なのだ。
ただ、普通なら出来るでガチガチに固めるのは良くないが、普通なら出来ることに近付くことでよりよい人間関係が作れるし、努力すべきことなのかもしれない。
つまり、普通ならできることというのは出来ない人には努力が必要なことなのだ。(当たり前だが。)
こんなことに気がつく事が多様性を信じる事なのかもしれないね。