「対策」だけでは心は癒えない
こうしたらこうする。ああなったらああやる。
こんな感じで対策をすることで、解決する問題というのはある。
というか、対策をしないと解決しないわけだから対策はするものだ。
ところで、この対策というのはただ手段の解決策としてだけでやっていくと何だか間違えた方向に進んでしまうことがあると思うのだ。
例えば音楽のサブスクリプションとか、月額で聴き放題にしておけばみんな楽しめるっしょみたいな対策をしたことに対して、アーティスト側の収益構造とか、音楽を楽しむって本当に音楽データを耳に注ぐだけなのかというとやや疑問だ。
CD屋に行って、積み重ねられたケースを手に取って店員さんに渡してレジで会計してもらって、帰宅してCDプレイヤーでワクワクしながら新曲を楽しみに聞く。
この工程はとても良いものだったのだけど、最近はサブスクリプションサービスで配信されたの!?聞くー!で終わってしまうのだ。実に効率的だ。
音楽を楽しむというのは、なんだか音楽を効率的に聴くというサービスに支配されてしまって間違えた方向に進んだ典型例なんじゃないかと思う。老害と言われたらそれまでなんだけども。
単に対策をするとただのエサを与えてるだけにすぎず、資本主義的にこのサブスクリプション形式からは逃れられないだろう。
であれば、必要なのはやっぱりメッセージやら心やらと言った人間臭さのようなものって今の時代とても大事だと思うわけです。
対策を施していくということは問題解決もするし、不満なく歯車が回るということであると同時に、心のことも考えないとおそらくうまくいかないのだ。
うつ病なんて対策だけではきっと癒えないだろう。