隠しノート

僕は能力のあるゴミです

自分を修正するのはなんだか気持ち悪いものだ

素の自分のままで生きれたら良いけれど、

素の自分のままだと迷惑をかける人というのがいます。

 

例えば僕は素を出してしまうと、結構嘘を言ったり、すぐに寝たり、すぐに家に帰ったりします。

 

だから、それを矯正するために気を遣ったり、あえてこの行動を取らないとか、色々考えたりして動きます。

 

これは学んだということになるのでしょう。

でも、長い時間生きてきて自分の中で「結構楽な自分」を作り上げたとします。

 

それよりももっと良い自分を見つけようとすると、なんだか脳みその根幹を弄る必要すら出てきます。

 

経験的にこう自分は対処してしまうので、あえてこう考えれば怒りが収まるとか。アンガーマネジメント的なやつでしょうか。

 

これがなんだか全くその通りになるし、僕の脳みそはこんな裏技的な処理でなんとかなるんだなぁと感心するけれども、一方でかなり悲しくなる。

 

自分が抱いた怒りという感情は確かなものなはずなのに、それがまさしくファンタジーとして処理されてしまう。

 

あの時の想いは本物だったのに。脳みそのバグで変に落ち着いてしまう自分がいて、あの想いは勘違いだったことになってしまうのだと。

 

これはめっちゃひどい感じに書くと、身内が亡くなったとして悲しい感情があって泣くものだと思うけれど、脳みそのバグを使えば悲しい感情も涙も別に出なくなる。という感じなのだ。

 

僕はなんだか、この無理矢理に感情を偽者にするハック的なやり方が人間的ではなく、薬物的なものに思ってしまうのだ。

 

僕はバカですから、こんな風に思ってしまうのです。最近は怒りに遭遇する場面が多すぎて、この怒りを鎮める処理をたくさんしている。

 

僕はどこか悲しい。

 

こんなの人間じゃないとすら感じる。それでも怒りを抑えることは偉いと自分を褒めたりする。

 

流れに身を任せて、人は素直に感情を受け止めたり、表したり、我慢したり、声を荒げてしまったりということをしていくべきだと思う。

 

なんだか、それは人によっては間違ったリアクションになってしまうのだとしても尊いものなんだろう。

 

かといって暴力に踏み切ったり支配まで行ったりは反対だ。よろしいならば戦争だみたいなことにもなる。

 

つまり、結局はその場面で怒りを抑えないといけない時には脳みそのバグで感情を操作して良い立ち回りをしないといけないわけだ。

 

なんだか身内の目の前でいきなりブチ切れだすのも迷惑だもんね。

 

整理すると、自分が感じていた感情は尊いもので、だけど実際に行動に起こすと迷惑になるパターンがあるので、感情を制御する方法は覚えておく必要があるということだ。

 

いや、んなことは最初から分かってるのだ。なんだかこうしないといけない生き物なのが悲しいよ。

 

自分の感情を考える時間は、欲しいよね。僕は今日も怒りを沈めたけれどもうその時の勢いは無くなっているし、あの時に感じた感情もとうに消え去ってしまった。

 

生きにくいねぇ。